2006年2月20日(月)〜2月28日(火) 9日間
神奈川県横浜市在住 佐伯 政英様
今回の旅は出発前からいろいろな事があった。先ず、何回かクルーズにご一緒していて、今回もご一緒する予定であったN氏より、義母様が白寿で亡くなられたため旅行を中止するとの知らせが入った。
また、出発1ヶ月前の最終案内で知らされた部屋番号を見てふじ丸の「キャビンプラン」をみると、なんとこの部屋がボートに視界をさえぎられる部屋になっている。厚かましいと思ったが、前回も同様の部屋だったので、旅行会社に変更を依頼してみたら、担当のA嬢が気持ち良く「タレント用に確保している一室でよければ」と受け入れて呉れた。但し、窓に階段がかかる最後尾の船室とのことだ。それで結構と一件落着。
次は出発前日。同行を予定していた友人Fの奥様から電話があり、時刻は二月十九日十二時三十分。「佐伯さん、明日の旅行に行けなくなっちゃったの、今朝おばーちゃんが亡くなっちゃったのよ。一日遅ければ船に乗ってしまっていたのに」と。全くその通り、出港予定は明日の十二時なのだから。しかも、この日は日曜日。さて、どうしたものだろう。当日でのキャンセル料は100パーセントだからね。あれこれ調べてみると、旅行社の大阪営業所が営業中とわかり、概略電話をしておいてから、その旨をF夫人に連絡。ところが、何処でどうなったのか、小生がキャンセルすると思われたらしく、件のA嬢から小生宅に電話が入った。事実を説明しF夫人に電話をするように頼んで、急いでまたF夫人に連絡。この件もこれにて落着。但し、キャンセル料は80パーセント。それにしてもF夫人の残念がること残念がること。
んな訳で、クルーズ仲間のN夫妻、ダンス仲間のF夫妻、麻雀仲間O夫妻と四組の夫婦でクルーズを楽しむ予定であったが残念ながら二組が欠けてしまった。
さて、出発の当日。家内はO夫妻とお嬢さんの運転で荷物と共に先発。小生、九時三十分洋光台発の電車に乗るべく駅に向うも事故で、予定の電車は運転取り止め。やむなく再開を待って関内駅からタクシーで急ぐ。埠頭に着いたのは偶然にも先発の車と同時であった。
十時、乗船手続きを終えて乗船。乗船証を見ると船長名に見覚えがない。クルーに尋ねてみると畠村船長は年次休暇の消化中の由。納得。
乗船後、オリエンテーション会場に向かいながら、今度出港する時は見送ると約束していた同級生の池富君(池田富夫)に電話するも会議中。彼の勤務先は埠頭のすぐ近く。数分後に電話あり。
「約束の酒と菓子を差し入れするから出て来い」だと……。もはや下船は出来ないので、これまた旅行社のA嬢に受け取りを依頼して甲板に出ると、小雨の中で手を振ってくれていたが、こちらからの「サンキュー」の声は届かない、はやめに引き揚げるよう手振りで知らせて、再び会場に戻る。
今回の旅は出発前からいろいろな事があった。先ず、何回かクルーズにご一緒していて、今回もご一緒する予定であったN氏より、義母様が白寿で亡くなられたため旅行を中止するとの知らせが入った。
横浜港からの出航は何回目だろうか、小雨とはいえ雨の日の出航は初めてのこと。十二時十分前、ドラを叩いてクルーがプロムナードデッキを廻る。音楽が聞こえるが、どうも今日はテープを流しているようだ。
何時もながらの軽快な音楽から「蛍の光」に変わったと思ったら、船は岸壁を離れていた。小雨が肌寒いので早々に船内に入り、ダイニングルームへ行き昼食をとる。
食堂に入ると、北島琴路さんが大仰に歓迎の意を表してくれた。今回の旅も愉しくなりそう。でも、リン君やグレース君が「にっぽん丸」に移ってしまったそうで、これは残念。
このとき北島さんに小生の駄文『ぱしふぃっくびーなす乗船記』を畠村船長に届けていただくよう依頼する。
十八時からウェルカム・カクテルパーティー。続いて夕食。あっという間に第一日目が終わる。
二日目、二月二十一日は終日航海日。五時に目が覚めたが二度寝する。六時四十五分頃、起き出して朝風呂。 今日は七時四十五分頃、室戸岬。十時五十分頃、足摺岬。十七時半頃には、都井岬を通過の予定。
朝食後、九時よりメインホールで竹村健一氏の講演を聴く。テーマは「これからの日本」であったが、題名に関係なくご本人の履歴の一端を披露されたようなことで、意外な一面を感じ、愉しいものであった。
その後は例によりO夫妻と麻雀。そして、昼食はゆっくりと一時間ほどかけてとる。
昼からは、サロン「桜」で二時間ほど読書。十五時過ぎ、アフタヌーン・ティー。家内はプロムナードデッキ(一周三一〇メートル)でウォーキング。十周以上もしたとかで、さっさと風呂へ。
船では意外に退屈する暇もなく、食事から食事の間が短く感じられる。夕食時、十八時を過ぎて暗くなった洋上に島影が見える。偶々、テーブル近くに居合わせた北島琴路さんに、「あの島は何処?」と尋ねたら、「サー、何島でしょう。私は北島ですけど」とやられた。そして直ぐに調べてきてくれて「種子島」だとわかった。
二十時からの「二胡の演奏」を聴きに行くも途中で戻り、早々に寝る。
三日目、今日も終日航海日。船は全く揺れない。テーブルにマッチ棒が立ちそうなほどで、海の上に居るとは思えない。
八点鐘を聞いてまもなく、「左舷前方に鯨が汐を吹きながら横断中です。」と船内放送があり、左舷デッキに出てみると五、六頭の鯨が汐を吹きながら船に併行して泳いでいる。大きな尾も見えたがみるみる後方へ遠のいた。
まもなくまたまた同様の案内があり、出てみたが見えない。追っかけ船内放送があり「どうも鯨が恥ずかしがって海底に潜ったようです」と。
暫くすると沖縄が見えてきた。海上に一本の白い横線を引いたように白浜が美しい。近くに見える島遠くに見える島、それぞれに美しい。
暫くすると沖縄が見えてきた。海上に一本の白い横線を引いたように白浜が美しい。近くに見える島遠くに見える島、それぞれに美しい。
今日も午前中は麻雀、二卓おかれているが何時も我々だけだ。午後は「台湾・寄港地オリエンテーション」等々。とにかく今回は海が穏やかだ。
夕食後、キャビンでO夫妻と飲みながら対インド戦のサッカーを観る。日本の勝利を確認してからダンスタイムの後方ラウンジ「エメラルド」に行くも人はまばらでタンゴの曲も心なしか淋しそう。曲がルンバに変わってもほとんど踊る人なし。飲むだけ飲んで酔っ払って寝る。
四日目、二月二十三日。今日は八時に花蓮港に入港の予定。今日からは台湾時間。日本より一時間遅れとなる。従って日本時間では九時の入港。この日の天気は最高気温二十四度、最低気温十七度で曇りの予報。昨夜は夜中に相当揺れたようで、グラスが落ちて割れていたのに驚いた。
八時より入国審査。下船して九時少し前、バスで「太魯閣峡谷」へ向う。奥へと向かうほどにふと昇仙峡を思い出したが、全然スケールが違う。
長春祠・燕子口・九曲洞と巡る。固い岩盤の庇の下や狭いトンネルを何箇所も抜ける。高い深いといっただけの景色を眺めては、何一つ見えない海原を眺めてきた目には表現のしようのない景色だ。
昼食は「統帥大飯店」で飲茶。不味くもないが美味くもない。おまけに誰も飲もうとしないので独り台湾ビールを注文。
次に大理石工場を見学、ガイドはマイク片手に流暢な日本語の老人。続いて阿美族の踊りの見学。これがなんとも馬鹿馬鹿しく、途中で腹が立ってきた。
船に戻って早々に入浴。どっと疲れが出た感じでベットに横になる。食後も、ダンスタイムの「エメラルド」を覗くも今日も人影まばらで部屋に戻る。家内は疲れたのか早くも寝ている。パントリーから氷をとってきて十時の出港まで飲むことにした。気がついたら十時十分。まだ船は動いていない。十五分を回ったところで動き出した。入港の時の大歓迎風景とは打って変わって、真っ暗な港の音ひとつない静かな出港。
五日目、基隆港入港、雨。昨夜は台湾沿岸に沿って北上しただけの割には揺れた。前日の夜同様、台湾の沿岸海域は気象条件が悪いのだろうか、今朝も二度寝してしまい、既に船は港に停泊していた。気がつけば外は雨。基隆港は雨の港というそうだ。
船はターミナルビルに接触するように泊っている。ビルの向こう側メインストリートだから街なかに泊まっているようなものだ。この港なら投げたテープが届かないようなことは無いだろう。
今日は台北市内半日観光の予定。小生の目的地は「故宮博物院」のみ。八時過ぎバスで出発。高速道路を通って四十分ほどで到着。基隆は小雨で雨具を持参したものの、台北は薄曇り。「故宮博物院」は広い敷地に美しい建物である。しかし、中に入っての見学は一時間半ほどだが疲れた。展示品がありすぎるし暗い。観光客がさっと観るようなもので無いことは確かだ。なかでも「茄子の形の鼻烟壺」と「翠玉馬書鎮」は印象に残った。
次は「忠烈祠」、抗日戦争などで戦死した国民党政府の将兵の霊を祀っているところとて余り行きたくないが、これも観光コースの一つであり一時間に一度の衛兵の交替式が売り物、まさに一流のショー。
昼食後は、故将介石を記念して建てたという中正祈念堂へ。瑠璃瓦と白の大理石の大きな建物は美しい。ただ、歴史に疎い私には堂内の展示物などは余り面白くもない。中庭の景色のほうに見応えがあった。横門から出てバスで船に戻る。基隆に近づくとまたも雨。
六日目。今日は自由行動の予定、午前中は近くの基隆市内を観て歩き、午後からのシャトルバスで台北市内に行くことにする。
九時過ぎ下船して近間をぶらぶらと、基隆駅、魚市場、野菜市場など近くを歩く。魚は豊富だが奇妙な魚が目に付く。また、見たこともない蛇のような長い茄子や林檎らしからぬ林檎を売っている。一時間半ほど歩くと、湿度が高く汗がダラダラ流れる。しかし、薄日が差して来ただけましだ。いったん船に戻って昼食をすませ、十三時発のシャトルバスで台北へ行き、デューティーフリーショップ前で降りる。
ガイドの黄さんが迎えに来ていてショップに入るも買うものも無く、裏道へ出て欣々百貨店地下のスーパーに入る。ここにも土産にするようなものは見当たらない。外へ出て、新光三越辺りなどをぶらぶらする。女性軍は再度ショップへ行く。
小生はO氏とショップ上の大酒店でビールを飲んで十七時のシャトルバスを待って帰船。食後は「岩崎浤之とタンゴコスモス」の演奏を聴く。
基隆港出港は二十二時定刻に、リバースターンの4・5・6歩を踏むように後退し、船尾より右回転を始める。デッキに出て見ると親子連れ二組が手を振っている。こちらもデッキから左右に大きく手を振ると、気付いたらしく大きく手を振っている。素早く振れば素早く、ゆっくりと振ればゆっくりと応えてくれる。
船がターンを終える頃、親子は見えなくなった。七色に変化している山腹のKEELUNGの文字も小さくなり、船はスピードを上げた。
七日目。復路の終日航海日。船は非常に揺れている。サロン「桜」で本を読んでいると反射した波の影が天井を走る。
春涛の影天井を流れけり
船内放送は本日のデッキランチは悪天候の為、中止する旨告げている。室内に変更された昼食後、二回ほど麻雀をして早めの風呂に入るも揺れて危険なため、さっと上がってベッドで本を読む。
それにしても今日はよく揺れる。目測では三〜五メートルの波のように思われる。今日はもはや寝るしかない。
八日目。午前二時、昨日十四時頃より揺れだしてまだ揺れが続いている。パタパタと言う音に目が覚めて、暗い部屋の中をウロウロする。家内も目を覚ましているかもしれないが、ぴっしりとカーテンを閉めているのでわからない。音の原因はキャビンの隅に掛けられたハシゴの音とわかったが、取り外すことができない。ベッドからズレ落ちそうになるほど揺れるのは珍しい。縦横に揺れるだけでなく「8」の字を描くように揺れている。
これでは年寄はよほど注意して手摺りを掴むなどしないと危険だなと思って、なんと「自分も立派に年寄りである」ことに気付いた。
改めて寝て四時半小用に起きると、先ほどまでの揺れが嘘のように静かだ。
もう一度寝て、六時起床。いったん嘘のように止んだ荒れがまたもぶり返している。一向におさまる気配はない。
朝食後は例により麻雀。船が揺れるといっても、香港クルーズのときのように積んだ牌が崩れるような揺れではない。あっという間に昼食時間。今回の旅行は食べてはゴロゴロ、食べてはゴロゴロしている。気分を変えて「エメラルド」で本を読んでいたら、ダンス教室が始まった。観ていると「チャチャチャ」をやっている。これは一つ覚えて帰ろうと思い飛び入り。講師の教え方は実に上手い。2・3・4・&1、2・3・4・&1。このときも揺れはおさまらず、前進すべきところ斜めに進んでしまう。汗だくになったが揺れのため、展望風呂はクローズ。この揺れではこの後も寝るしかない。
九日目、最終日も朝は曇り。十六時、横浜入港の予定。
この度は、鯨の見えた一日のみ晴れ、あとは全て曇り。飲みすぎで疲れた旅。七十歳の爺さんのやる旅ではない。反省することしきり。でも、死んでも治らない。
十一時、フェアウェル・ビンゴ大会。最初のビンゴはO夫人。われわれ夫婦は全くお呼びでない。
この日、朝食時、昼食時とも北島さんの颯爽とした姿が見えないなと思っていたら、久保さんが「今日、北島は休日です。」と教えてくれた。
十四時過ぎ、目の前にベイブリッジが見えて、船は流れに任せたように浮いている。サロン「桜」でのゆったりとしたひととき。背後でクルーズ狂らしい人が話し合っているのを聞くとはなしに聞いていると、、、
「カジュアルクルーズといいながら「ふじ丸」の食事は最高ですね。」
「そうですね、ただ展望風呂の窓が高くて展望できないのは残念です。」と。
(わかってないね、「ふじ丸」のは【天望風呂】なのよ、と思いながら……)
船内放送は予定より少々早めに接岸すると伝えている。十四時四十分、ベイブリッジの真下を通過。デッキに出ると、埠頭には「飛鳥II」が停泊している。いよいよ、九日間の船旅も終わり。
2006年3月・記
佐伯政英